なんとか風邪も治まってきました。とホッとしてたら、北海道にいる友達は、インフルエンザで苦しんでました(汗)大丈夫かな〜。駆けつけてあげられないけど、頑張れ、のんちゃん。

memo

水曜どうでしょう日記のメモです。おもしろかったので、コピーしときます。・・・長いですけど。

5月4日(金)
どうも連休中ですが嬉野です。

前回の日記でね、

「一体いつから日本人は、テーブルを囲んで食事をするようになったのだろう」というね、

日本の食卓に対する私の個人的疑問を、
結論も無く疑問のまま書きつけまして、

その結果、
ある日いつものように、何気なく「どうでしょう日記」をお開きになり、読むとも無く読まされた多くの方々を、
問答無用で私同様、中途半端なままの「どうしてなんだろう迷宮」へと引率してしまいはしなかったろうかと悔やんでおりましたところ。

意外や意外。

「なるほど」と。

「嬉野にそういう疑問があるのであれば、自分が、出来る限り補完してやろうではないか」と言う、
まったくもって「同士」と、お呼びしても過言ではない、
付き合いの良い方々が、うちの番組周りには、かなりの数、おられるということを、私、掲示板に寄せられました書き込みを読みながら実感いたしまして、

つまり、私の疑問を少しでも晴らさんが為の、いろいろな情報提供及び面白がり意見が送信されてきたわけなのでございます。

いやぁ、励みになりますなぁ、みなさん(笑)。
マジで。

で、夏目漱石先生の小説「こころ」の中に、こういう件(くだり)があるそうです。

「今では何処の宅でも使っているようですが、その頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族は殆どなかった」

これは、明治の終わりに明治中頃を回想しての場面だそうです。

つまり漱石先生が、
登場人物を介して少し前のことを回顧しておられるわけですね。

「みんな忘れているようだが、少なくとも明治の中期まで、みんなでひとつのテーブルを囲んで食事をするなんていう習慣なんか、なかったじゃないか、食事の膳は、銘々にひとつずつ、独立したものがあったじゃないか」と。

おそらく、江戸時代以前から、数百年の長い歴史を持ちながら、明治の中期まで日本人のありふれた食事風景だった銘々膳が、それから20年もしないうちに都市部の家庭から消えてしまい、それに代わって、それまで存在もしなかったテーブルとか卓袱台とかいう名の「食卓」が、気が付けば、日本中の家庭の食事風景には欠かせないものになっていたという事実が、この文章からわかるわけであります。

(しかし、こんな文章があったと覚えてる人がいるんですねぇ)

同じく漱石先生の「我輩は猫である」の中にも、くしゃみ先生の御家庭で「食卓」という言葉が文中に出て来るので明治後期には、ひとつの食卓で家族が食事をするという習慣がポピュラーになっていたんではないでしょうかという情報も他の同士の方から頂いておりますが、日本の食卓風景の変革時期を証言するものとしては、「こころ」の漱石先生の文章で、答えが出た感があります。

それと「卓袱台のことを詳しく書いたサイトがあります」という情報もいただきまして、そこを見ましたら、卓袱台は明治10年に開発されたとありました。そして明治30年以降に一般化している。

こうしてみると、漱石先生の「こころ」や「猫」での描写が裏づけるように「卓袱台の普及が日本人の食事風景を変えてきたと考えてもいいのかもしれないなぁ」と思えてきますね。

で、そのサイトにあった「ちゃぶ台、しっぽく台」という文字に私の目は釘付けになりました。
「しっぽく」というのはテーブルの名前だったのかぁ!というのを思いがけず知ったからですよ。

これも前々から個人的に気になっておったのであります。

と言いますのも、ほれ、
長崎に「しっぽく料理」というのがあるでしょう。
旅行雑誌とか開くと名物料理として載ってますよ。
江戸時代から続く名物料理ですよ。

でも、あれのね、何が名物なのか分からなかった。

いえね、旅雑誌の記事を読んでも、「しっぽく料理」というのは、どうも「中華料理」とか「フランス料理」とかいうのとは違って、皿に盛られてる料理の名前ではなさそうだったのです。

そうではなくて「テーブルにいっぱい料理が並んでるのが売り」みたいな説明がなされている。

でも、現代人のぼくとしては、テーブルに料理が並ぶのは別に珍しいことじゃ無いから、いまいち、どこが名物だかわからなかったのです。

だから「しっぽく料理」ってなんだよとずっと思ってた。

でも、もう分かる。
「しっぽく料理」というものは「テーブル料理」というほどの意味だったのですね。

つまり「しっぽく料理」が珍しかった頃は、テーブル自体が珍しかったということなんですよね。

その頃の日本の一般的な食事風景は、独立したお膳を出して、料理は銘々のお膳に乗せて食べるものだったから、大きなひとつのテーブルにいっぱい料理を並べて饗するという風景自体が、既に新奇で花やいで日本人には驚きだったということなんですよね。

だから敢えて「しっぽく料理」と、「テーブル」の名前を料理の名前に付けてね、名物料理にしましたよ、みたいなことだったんでしょうね。

したらね、別の同士が、「ターフル料理」という「テーブル料理」が「おいしんぼ」にありましたという情報を寄せておられましたね。
私が書いたようなことは、既に御存知なんですね。

私も「おいしんぼ」さんを読んでれば、こうまで皆様をお騒がせすることもなかったかなぁと反省しておりますね。
やっぱり日本の漫画はためになる。

それに「ちゃぶ台」も「しっぽく台」もパソコンで打って漢字変換すると「卓袱台」という漢字に変換されるのです。

これって、「ちゃぶ台」と「しっぽく台」は同じものだということなのでしょうか?

うーむ、なんだか、雪崩のようにいろんなことが見えてくる。

ものを知らないということは、知った時の喜びに恵まれると言うことでしょうか、なんだか嬉しい。

そしてね、庶民の銘々膳として「箱膳」というものがありますという情報提供もありました。

おばあちゃんの子供時代まで、我が家は箱膳でしたというものです。

そしてね、「我が家には未だに食卓がありません」という書き込みまでいただいたんですよ。

この方の書き込みが印象的だったので、みなさんにも読んでいただこうと思いまして以下に転載しました。

「嬉野さん、こんばんは!
本日も興味深い日記でした。

我が家は古い日本家屋で、『食卓』というものがありません。テーブルのようなものは、ないのです。
時代劇によく、囲炉裏が出てきますよね。
あの周りに、くるりと座って食べるのです。

しかし、茶碗を直接畳の上に置いたりはしません。
一人一人『お膳』があります。正方形の木箱の中に、その人のご飯茶碗、汁物椀、小皿、湯のみ、お箸が入ってまして、食事するときはそこから食器を取り出し、蓋をひっくりかえして箱の上に置き、こじんまりとした台のようにして、そこに食事を並べるのです。
祖父母が生きていた頃から、みんな揃って食べる習慣はあったので、団欒風景とは呼べると思うのです。

で、食事が終わると、お湯でささっと食器を洗って、またお膳にしまい、それを水屋(食器棚みたいなものですね)に仕舞います。
今は使ってませんが、私は子供の頃、この自分のお膳をもらえたのが、すごく嬉しかったですよ。一人前、って認められたような気がして。
こういう文化も、どんどん消えていくんでしょうね。でも、思い出の中にちゃんと残ってるから、いいのかな」。

この方が、子供の頃、自分のお膳がもらえたことがとても嬉しかったと書かれているのが、ぼくにはとても印象的でした。
とっても分かるような気がしたんですね。

ぼくがね、
そう遠くないであろう過去のある時期に、日本人の食事風景が変わってしまったのだということにある日気づいた時(まぁその、先週なんですけどね)、その変換時期って、いったいいつなのだろうと興味を持ったのも、そういうことから来ている気がするのです。

つまり、様式が変わると、その様式と共に芽生え育まれて来た情緒や想いまでも変わってしまうということを、ぼくらは覚えておかなければいけないのではないかなと思ったんです。

確かに、銘々に膳があるということは、その家の当主が偉いとか、女より男が偉いとかいう階級意識から生まれたものかもしれません。
それでも、それほど階級意識の無かった庶民の家でも、
やはり、お膳は「銘々膳」だったのです。
それが時代というものだと思います。

そして、その銘々膳という様式の中でも家族団らんはあった。
そして間違いなく銘々膳での家族団らんと、
テーブルを囲んでの家族団欒とは、違う情緒をぼくらの気持ちの中に芽生えさせたはずなのです。

初めて自分の箱膳を貰った時の嬉しさ。
少し離れたところに座ってお膳で食事をしているお父さんを見つめながら、その距離の中にしか生まれることのないお父さんへの愛情。
食事のあと、銘々のお茶碗を銘々が流しに持って行き洗って、また銘々の箱膳に仕舞う。その行為と風景の中で感じる家族への想い。

そんな想いは、そんな行為のなかでしか生まれないもの。

ぼくらが思い出せるのは、せいぜい狭い一間で小さな食卓を囲みながら、家族の一員として、そろって食事をする時の連帯感くらい。

でも、この食事風景だって、ずいぶん昔の食事風景なのかもしれない。
やがて知らないうちに、日本人の食事風景は、まったく違った様式にとって変わられているのかもしれない。

ぼくらは気づいていないけど、慣れ親しんだ様式が変わるたびに、ぼくらの感受性も、複雑に変化を強いられているはずなのです。

そんなことを考えるようになったのはね、
きっとぼくが、47年生きてきたからこそだと思うのです。

47年の年月の移り変わりの中で、それまで身の回りにあたり前にあったものが、気が付けば、跡形もなく消えてしまっている。

その反対に、かつて存在もしなかったものが、もうそれ無しでは不便が起きるほどに普及している。
そのことの間で、自分の情緒も、他人に対する想いも変わってしまっている。

様式の変化は、目に見えるもののはずなのに、ぼくらはいつも、変化して行く方向にだけ熱狂して進んで行くから、消え去って行く物の方には、少しも意識が向かわないのでしょうね。
だから、いつの間に変化が完了していたのかさえ気づくことがないのでしょうね。

でも、様式が変化する中で、ぼくらの胸の中に湧き上がる情緒も変化してしまっているのですよね。

そのことに、ぼくらは、気づかないよりは、気づいていたほうが良いのだろうなと、なんとなくぼくは思ったのです。

多分、今後もどんどん、生活様式は変わって行くでしょうからね。

でも、どんな変化の中にも、それなりの家族団らんは、形を変えながら存在するわけですからね、ぼくらに団欒する気さえあれば。

いやはや、また長々しい日記になってしまいましたよ。